幼少期から体を動かすことがとにかく好きだった私は、少年時代ヤンチャの限りをつくしていました。自分の中の正義感からなのか、自転車の二人乗りを注意したり、ゴミを捨てずに置いていく子供を注意する!所まではいいのですが・・・結果的に殴り合いの喧嘩になったりしていました。
そんな私に二つの転機が訪れます。
一つは和歌山県にプロレスの巡業で来てくれた「アントニオ猪木さん」に出会ったことでした。当時の私は周りが見えず、関係者専用口に勝手に入り込みビデオカメラを片手にアントニオ猪木さんに会いに行きました。とても大きく、同じ人間とは思えない。そんな思いが人体へ興味を持つきっかけの一つになりました。
もう一つは、長い間お世話になる剣道を始めたことでした。
小学校高学年〜高校卒業まで剣道に打ち込むことになった私は、地域の子供剣道教室のキャプテンをしたり、地区大会で優勝したりと剣道小僧になっていました。
しかし、剣道を通して人間に対する違和感を覚え始めたのもこの頃からです。
私の時代はまだ体罰やパワハラなどという概念のない時代でした。裸足でグラウンドを走らされたり、砂浜に首まで埋められて自力で脱出するまで帰れなかったりと、これは一体なんなのだろう?剣道・武道と関係あるのだろうか?と考えていました。
剣道の大会でも、相手選手に罵声を浴びせたり、彼女が欲しいから試合に勝つ!!など武道の精神とはかけ離れた人たちが大勢いました。
私は思いました。
「この人たちはなんなのだろう?」
私の時代は就活氷河期時代と呼ばれている時代でしたが大手航空会社に入社することができた私は自衛隊の訓練を受けたり、CAの訓練を受けたりと充実した日々を送っていました。
しかし、そんな充実した日々もそう長くは続きませんでした。
「腰椎椎間板ヘルニア」になってしまったのです。
あまりの激痛に歩くことができなくなってしまった私は病院へ通い、接骨院へ通い治療に専念しましたが痛みが中々取れず呆然としていました。
そんな時、友人の知り合いに地元では仙人と呼ばれているおじいさんがいると紹介され行ったところ「たったの5分で」痛みが大幅に緩和したのです。機械ではなく手技で大幅に痛みを緩和できることに感動した私は手で出来る療法を習得すべく大阪のカイロプラクティック専門学校へ行くことになります。
カイロプラクティックの学校へ2年通った私は、結果的に一つの違和感を覚えます。「バキバキと音が鳴るような強い刺激を高齢者に支えるのだろうか?」と。
違和感が消えない私は更なる勉強と鍛錬のために神戸のアメリカ人講師の元でさらに2年間勉強することにしました。カイロの本場アメリカでの実習なども経てついに施術家としての第一歩を踏み出すことになるのですが・・・
中々、思うようにはなりませんでした。
今で言うところのパワハラ、モラハラ。
お客さんに対する暴言など私のイメージした世界とはズレた世界が広がっていました。
私がしたい施術はこれじゃない。
お客さんに必要な施術はこれじゃない。
その想いから一大決心をします。
大きく環境を変えてみよう。
もっと自分が成長できる場所を探してみよう。
施術家として成長するため、私は地元関西を離れ東京へと出てきました。
この時すでに32歳を過ぎていました。
今までの実績が認められ、東京の中でも一等地の世田谷区成城の接骨院さんで施術に打ち込む日々を送らせてもらえました。
東京へ出てきたばかりの時は方言がきつかったのもあり、標準語に馴染めなくて苦労しました・・・
その後、関東近郊の山梨や両国、豊洲のお店のフォローをしたり、講師としてセミナーを開催させて頂いたりと楽しい施術家人生を送らせてもらっていました。
どんどん、自分が成長していくのが実感でき、確実に実力がついていく、今まで諦めていたような症状でも結果が出せる!毎日毎日がとても楽しく充実した日々でした。
そんな順風満帆にも思えた私の人生に再び大きな落とし穴が待っていました。
私の施術家人生もそろそろ折り返しかな?
そんな事を考えていたある日。
私の人生は一転します。
「2回目の椎間板ヘルニア」
今度は、首も腰も壊れていました。
手も足も動かず車椅子生活を送ることに。
きっと、体が動くようになってももう私は施術家としてはやっていくことができないのだろうな。
正直、そう諦めるほど重い症状でした。
再びヘルニアになり、車椅子生活を送っていた私はまた病院、理学療法、電気治療と前と同じような治療生活を送っていました。
もう、治療家としては働けない体になった私はせめて日常生活だけでも送れるようになるため、指先の訓練としてドローンを習ってみたり、他の職へつくために職探しをしてみたりと今後の人生を模索する日々が続きました。
学生時代、少し経験のあるプログラミングでデスクワーカーになって生活しようかな?
いっそ、今までやったこともないような新しいことに挑戦してみようかな?
少しずつ体が動くようになってきた私は面接を受ける日々を送っていました。
無理でした。
私から施術を取ったら何も残りません。
その反面、一つの想いが自分の中にあることに気づき始めていました。
「自分の知識と技術を熱意のある若者に繋げたい」
私は施術家でもありますが、後世への技術の伝承も大事な仕事の一つだと考えたのです。
その前に自分の体をどうにかしないと。
どこか自分が輝ける場所はないか。
不思議と活力がみなぎり、なんとか体が使えるようにまで回復していました。
2023年2月自分の新しいフィールドを探していた時。
銀座なるかみに出会いました。
「ここなら、やりたいことが出来る」
施術もできる、後世の育成もできる。
そう思い、お世話になることになりました。
きっとこれからも山あり谷ありだとは思うのですが、
私は私の責務を全うしようと思っています。
だって、施術ができるのですから!
こんなに素晴らしいことはありませんよ!!
銀座なるかみ
院長 堺田喬(さかいだ たかし)